二者択一に似せたクイズ
Date2026/06/08先日、しぐれうい先生の個展に行ってきた。
個展というものは初めてだったけれど、ファンミーティング的なノリで作品を楽しんじゃおう、という気分でも大丈夫そうだったので、敷居が低くてとても参加しやすい。
初体験だったので、〇〇に比べて何が良いとか気の利いたことは全然言えないのだけど、「ひょっとして作品が並んでるだけなのかな……楽しめるかな?」という不安はすっかり杞憂で、ファンなら目いっぱい楽しめるなぁ、という感想だけ残しておきたいと思う。
マシュマロを投げるコーナーもあったが「観客席で目立とうとすな!」の精神で、53の一員として応援コメントを添えてきた。
私のとってのうい先生は、不思議な存在のように思っていて、まるで師を仰ぐように推し活をしているように感じている。
ちょうどよい落としどころとして「ファン」という言葉があるのかもしれない。自分の生活のどこか近くにいるような、そんな身近さを勝手ながら覚えてしまう。
イラストレーターとして、VTuberとして、業界の第一線を走りながら編み出される様々な表現には、確かな熱量があるように感じて、どんな言葉もすっと腹落ちする感じ。
それと裏腹に、慎重なところもユーモアが輝くところもあって、人間として尊敬できるところがあふれてる。
率直に憧れる生き方だなと思って、ついつい「先生」と呼びながら背中を追いかけてしまう気がする。
そんな前置きがあってからの、以前日記に書いたうい先生の楽曲「あいしてやまない」がいまだに頭を離れない。
あの音楽を聴いてからもう1週間になるところだが、いまだに地に足がついてない感じがする。
どうにも、社会人としてこの生活に納得して馴染み始めていた自分を見つめ直さなくてはいけない気がしてしまうのだ。
忘れようとして忘れかけていたものが、実は大切な自分のかけらだったのではないかと思い直して、それを探しに行っているような気分。
平日を淡々と過ごしているとすっかり抜け落ちてしまうのだが、休日にふと我に返ってしまう。いや、我に返ることができている。
最近は、何事にも白黒つけようとする白黒病にかかっているようだ。
悩むこと、考えることはほとんど無駄な時間であり、いま目の前に提示されている条件を並べて優劣を下し、すぐに判断すべきだと体が反応している。
何かを決定すれば前に進む。正誤を断定して、間違っていることはよくないこととして忘れる。そうすればまた次の条件が現れて、それに判定を下す。その繰り返しで、やがてゴールにたどり着く。
将棋をやっていた頃から、何かを決定する必要には毎時迫られていたから、そういう思考法は常に持っていたと思う。けれど、それは仮定を用いた思考法であり、棄却するほど過激ではなかったように思う。
何かを仮定すれば、それは戻るかもしれないということを暗に示している。
現状から踏み出さずに、その先について考えをめぐらしてみる。じっくり考えて、とりあえず付箋を貼ってから別の線についても考えてみる。そしてまた付箋を貼って、見比べてみる。
決めてしまったら戻れないのなら、考え尽くすよりない。そういう考え方をするのが得意だった。
けれど、今はとりあえず走り出すことばっかり考えている。
まずは条件を並べて、走り出してみる。それで、その選択が良かったとこじつけて、現状を前提として次のことを考える。最初に明確なゴールを決めているはずだから、それを繰り返していけばやがて辿り着く。
たしかに、意思決定を迅速に行う仕事ではそれが正解だと思う。
でも、人生までそうやってバタバタと走り回っていると、だんだんわからなくなってしまう気がしている。
最初に持っていたもう一つの選択肢のことを忘れてしまって、もし目指した場所が本当に欲しいものではなかった場合、戻ることが非常に難しい。
それこそ、現状を起点としてまた考えるよりない。だから、もう肥えた目で、狭い視界の中で別の正解を探しに行かないといけない。そうするともう、ゴミ箱に放ってしまったまぶしいだけの可能性のことは、すっかり忘れてしまっているのだ。
こんな入り組んだ言い方をしているが、要するに私は、私自身が「好きなもの」ってなんだったんだろうと、すっかり忘れてしまったことを悲しんでいる。
自分なりにいろんな試行錯誤をしてきたつもりだったけれど、上述したような過激な思考によって、本当は選べたかもしれない選択肢を、何度も切り捨ててしまったのではないかと恐れている。
例えば「一生好きでいる自信があるのか」「自分が一番になる覚悟があるのか」「それをしていて楽しいのか」「それをしている自分を客観的に見て不安にならないのか」「それは将来的に金銭を得られるのか」「途中で面倒になって投げだしやしないか」「好きな人は自分しかいないのではないか」「世の中に求められていないのではないか」「すでに出来上がったコミュニティーに入っていけないのではないか」「今からやるには遅いのではないか」「やることに何の意味もないのではないか」「継続できないのではないか」「本当は面白くないのではないだろうか」「それをすることで別の可能性から逃げていないか」「誰かに影響されただけで自分の意志ではないのではないだろうか」「下らないことではないか」「世間的に評価されないのではないか」「むしろ批判されるようなやましいことではないか」「今しか楽しめないのではないか」「もう少し待てばどうせ忘れるようなことではないのか」「他にやるべきことがあるのではないだろうか」「それより楽しいことを知らないだけではないか」「自分がやらなくても他人がやっていればいいのではないだろうか」「それをやって無駄だったと後悔しないだろうか」「大した成果も残せないのではないだろうか」「全然うまくやれなくて恥をかくだけではないか」「それをするとしてもっと確証を得られるまで他の選択肢を検討したうえで採用してみてはどうだろうか」とか。
私が何かを好きになろうとしたとき、上に挙げたような言葉が毎時毎秒脳裏をかすめる。
それでも、それを上回って「やりたい」「楽しい」と思えることを探していた。
でも、こんなにも強大な言葉を払いのけるようなことなんて、もう私の世界の中にはないんだと思う。
今まで、それこそ無邪気な頃に何かに取り組んでこられたのは、こういう言葉のない世界で生きていたからこそだったのだ。決して、この言葉にあらがえるほどの使命を持って生まれたからではない。ただ単に、それを知らなかったのだ。
そもそもこの言葉の山の上に成り立っていることは、ほとんど日常生活である。
日常的な習慣から、ついやってしまうこと。それは昔からやっていて、それをやるのが当然だからやっているのであって、それこそ人間の三大欲求の外にある事について、上記の言葉の暴力で殴ってやれば、全ての習慣は撲滅できるはずだ。
それこそ「社会に出て働く」ということさえ、「一生好きでいる自信があるのか」という一つ目のパンチで撃沈する。
それでも続いているのは「だってやらなきゃいけないことじゃん」という意志だ。別にやらなくても生きてはいけるけれど、それを受け容れないことを選ばなかった。
別に働かなくたって生きていける道はあるし、その道を拒んだ人だっていくらでもいる。でも私は自分の意志で、それを続けることを選んでいるのだ。そう思うと、いくら引きずりおろそうとしたって、たった一つの意志だけで乗り越えられる簡単なことだったのかと、ふと思う。
「白だと思い込んでしまえば白だ」というのは、一見すると論理が破綻しているように感じるから、理論的に判断を下そうとしたときに、そういった身勝手にも思える発想にはすぐに蓋をしてしまう。
それらを封じた後に、私が何を好きなのかと判定しようとすると、そういう時に出てくるのは中立なふりをした評価軸である。
世間一般的な批評、自分の心に問いかけるような質問、目に見えた利益と不利益。
色んな評価軸をもとに、ある程度選定はできる。明らかに一般常識を逸脱した発想はそこで叩き落すことができる。けれど、それでも残ったものは、強制的にふるいにかけられて、そしてすべて落とされる。
なぜかといえば、それは「二者択一に似せたクイズ」だからだ。まるで回答権が自分にあって、自分がそれを選んだように見せかけている。でも本当の答えは最初から決まっている。私はこの言葉が、いまの世間を皮肉っているようで大好きである。
なぜかって、最初に「白だと思い込んでしまえば白だ」という本当の自分の心に蓋をした状態からふるいにかけているからである。
理由のないものに理由を付けようとすると、全ては却下される。必ず一つの評価に対して、両極端からの批判は容易だからである。
それこそ「人は殺すべきではない」という99%正しいと思われる意見でさえ「自己防衛で必要な場合もある」と土を付けられては、同情で少し首を傾げてしまうのが人間の性だからだ。
だからこそ「それはそういうものだ」といういい加減で独善的で理屈もへったくれもないものしか、正しいと言えないのである。
長ったらしく書いたけれど、言いたかったのは「好きなものは好きだ」ということだ。
「好きに理由はいらない」とよく言うが、それは「理由を付けてしまったら簡単に嫌いになれるから」であると思う。
好きに大小はあれど、優劣もまったく論理なくつけてしまってもいい。これが好き、これはもっと好き。あれもこれも全部好き。理由はない。私が正解。
そんな純粋な泉から湧き出た生き様が、どこかの誰かを知らぬ間に突き動かしていく。
私がついつい慕ってしまう人々には、そういう純粋さを自然と指先に込めている魅力があるんだと思う。
誰かを納得させる必要はないから、理由は必要ないのだ。
これが私の外の世界と、私の中の世界の、ただ一つの違い。